次女が週3回親子分離のプレ幼稚園に通うようになり、年少への入園もあと半年と迫ってきて、だんだん子どもが手を離れつつあるなと感じることが増えてきた。
「子どもが手を離れたときに自分がなくなっていた、ということのないように」と自分の“好き”を大事にしてきたつもりだったのに、いざそれが近づいてくるとまさに自分もそうなりつつあることに気づいて虚しくなってくる。
自分が好きだと思っていたブログは子どもを抜きにしたら何を書きたいのかわからないし、好きだと思っていた写真だって子どもを撮らないとなったら何を撮りたいのかわからない。結局自分の“好き”でさえ子どもありきで成り立っていたみたい。「子どもがいながらでも」「子どもがいるからこそ」できる趣味。
子どもが手を離れてきたからといって別に無理に子どもから離れなくてもいいのかもしれないんだけど、これまで子どもとべったり過ごしてきた時間が長すぎて、自分の“好き”くらい子どもと関係ないところで持っていたいって気持ちになっている。
一方で、子どもが離れていくことに戸惑いを感じている自分もいる。
どちらかというと私派だった次女が最近完全な夫派に鞍替えして、「パパがいい」「かかはいや」になっている。手をつないだら「パパがいい」と泣かれ、抱っこしたら「いやだ」と泣かれ、子どもが夫に懐いてわたしの負担が減るのは喜ばしいことだったはずなのに、いざ子どもに離れていかれると、自分の存在意義がわからなくなってしまう。わたしは家政婦かって思ってしまう。
子どもには早いとこ精神的に自立してほしいし、お互い干渉しすぎず共同生活を送るくらいのスタンスでいたかったはずなのに、いざ必要とされなくなり母ではない”ただのわたし“になりかけた途端、じゃあ“ただのわたし”って一体何なのということがわからない。
育児のこと抜きに成り立たせられるほど書きたい柱があるわけでもないブログに、手に取ることすらあまりなくなってきてしまったカメラ。特にフィルムカメラなんてもう半年は現像に出してないし、インスタも休眠状態。
子どもがいないときって、わたし何をしてたんだっけ。
そんなむなしさからか、ここ数ヶ月はドラマやアニメをひたすら観たり、スマホゲームをしたりって生活をしていた。どれもおもしろくていい時間だった。
だけどふっと、誰かが作ったコンテンツをただただ消費するということにさえ虚しさを感じるようになった。自分では何一つ生み出していないのに、貴重なはずの自分の数十(数百?)時間をただ消費するだけに費やしてる。
いったいわたしは何がしたいのか、わたしにはどんな価値があるのか、わからなくなってる。
わからないので、わからないなりにとりあえず自分が好きだったはずで、多少なりとも人から認めてもらえたことのあるものをまた始めようと思った。
それでブログを書き始めて、写真を撮り始めた。前回の記事みたいに真面目に物撮りをしたのも久々のこと。
(だいぶメガネのネガキャンしてしまってる気もするが。)
そうしたら少しずつ、心がときめくことも増えてきた。離れてしまっていた、人の文章を読んだり写真を見たりすることにワクワクしたりキュンキュンしたりすることが増えてきた。
まだまだ育児抜きで何が書けるか、子ども抜きで何が撮れるか定まらないけど、拙いながらでも何か生み出すことは楽しいんだってわかってきた。(それに、もしかしたら無理に「子ども抜きで」って考えなくてもいいのかもしれないし。ここはまだわからないけど。)
ブログ名を「つづるgraph」にした時の気持ちの通り、ひとまず「書くこと」「撮ること」を大切にしようという気持ちになれてる。それがすごく嬉しい。思い返せば3月のコロナ休園あたりから心が死んでたもんな。
「生み出したものに価値はあるのか」とか考え始めるとまた沈んじゃいそうだから、今はそこは考えずに生み出す楽しみを噛みしめて、自分が何にときめくかを追い求めながら過ごしたい。