叱ること
私はこれまで、「怒る」「叱る」をざっくり下記のように認識していました。
【怒る】感情のままに怒りをあらわにする。
【叱る】よくない言動について強くとがめる(伝える)
ちなみに辞書にはこう書かれています。
【怒る】
1 不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。
2 よくない言動を強くとがめる。しかる。
【叱る】
目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。デジタル大辞泉
意外にも、「怒る」と「叱る」はそれほど違わないのですね。
私の認識では「怒る」はただただ自分の不快感や怒りを感情の赴くまま発散しているだけ、「叱る」は相手のことを思って意図的にする行為。だから、子どもに対しては「怒る」でなく「叱る」をせねばならない、と考えていました。
この本を読書会で取り上げたいなと考えたのは、長女を叱りつけることが多かった、長女が3歳になる少し前ごろ。
「怒るではなく叱る」という意識のもと、頻繁に強い口調で叱っていました。とても高圧的だったと思います。
「叱る」上での強い口調は「ぽよにダメなことをわかってもらうため」と自分の中で理由付けしていましたが、
今思えば、ただ単に怒りやイライラといった感情を吐き出すためにしていたことだったかもしれません。
ぽよは叱られたあと私の顔色を伺うように「もう元気になった?」と聞くようになり…これはなんだか間違っているのでは?と危機感を抱くようになりました。
子どもを「一緒に暮らしをつくる仲間」と考えるようになって
読書会の本を選ぶために書店でアドラー心理学の本を選んでいる時、
「そういえば私、子どもを一人の人間として対等に接したいと思っていたんだった」と思い出しました。忘れてしまってたなんて、本当に余裕なかったんだなぁ私…。
最近やたらと「二人育児が辛い」「二人を世話するのって大変」と感じてしまっていたけど、
そもそも二人ともを私が一人でお世話するんじゃなくて、
「ぽよと一緒にぴよさんのお世話をする」とか、「ぽよと一緒に楽しく暮らす方法を模索する」と考えるのはどうだろう。
ぽよを「お世話する対象」じゃなくて、「一緒に暮らす仲間」「一緒に心地よい暮らしをつくる仲間」と考えるのはどうだろう。
そう意識してみると、「大きな声で威圧的に叱る」頻度が減りました。
そもそも子育ての目標が、「きちんとしつけられ、ルールやマナーを守れるように調教された人」を世に送り出すことではなくって「自分の頭で考え行動できる、自立した人」になってもらうことだと考えると、自ずと「叱る」よりも「自分の頭で考えることを促す」ようになっていくのかもしれません。
アドラー心理学での子育ての目標
〈心理面の目標〉
・私は能力がある
・人々は私の味方だ
〈行動面の目標〉
・自立する
・社会と調和して暮らせる
実践編
ぽよがおもちゃ(積み木など、投げるためのものじゃないもの)を投げた時。
「今何を投げたの?」「積み木」
「積み木は投げていいんやっけ」「だめ」
「投げるのは?」「ボール」
「じゃあ今は何する?」「んー、、、積み木つみあげてあそぶ!」
こんなやりとりができました。
以前だったらイラッとして「投げちゃだめでしょ!」「これは投げるものじゃないよ!」と、大きな声で叱っていたところですが、ぽよ自身に考えさせるようにしたら、お互いイライラすることなく穏やかな解決ができました。
大声で叱っていたら、ぽよが反発して大騒ぎ、こちらも更にイライラ…と、叱ることというのは百害あって一利なしだったと思います。
歯磨きを嫌がる時
以前は、自分の歯ブラシをくわえたままうろうろして仕上げ磨きに来てくれないぽよに対し「早く磨くよ!!」などととにかくイライラしていたところ、最近は下記のようなやりとりになってきました。
「仕上げはお母さんするよー」「い・や・だーーー!」
「あれ?今日ドーナツ食べたよね。仕上げしなかったらどうなるんやっけ」「…歯医者さん行かないといけないの…」
「歯医者さん行くの?」「…行きたくない」
「じゃあ仕上げする?」「うん(こちらに来てゴロンと寝転がる)」
ここまで来るのは一朝一夕ではなかったですが、
こちらだってぽよを苦しめたくて言っているわけじゃないのだ、こうするのがベストだと思うから提案しているのだということを理解してもらえるように根気強く話すことで、徐々にわかってもらえることが増えてきたように思います。
ただこれは、拒否することのデメリットを理解できる段階になってからでないと通用しないですね。。
ドライヤーをかけなかったらどのような不利益があるのかって、
今では「髪ボサボサになってかわいくなくなるよ」というと「かわいくないの嫌」って思ってくれるようですが、まずかわいいほうがいいと思ってないと成り立たないですもんね。
子どもがこの段階まで成長するまでは、ひたすら忍耐と工夫で乗り切るしかないんでしょうか…(;_:)
むしろ「叱る」より「怒る」ならしてもいい気がしてきた
そんな日々を過ごしているうち、以前は「怒るより叱る」と考えていたのが、むしろ「叱る」って上から目線であって、まだ「怒ってしまう」ほうが対等な人間関係の中では自然な反応だよなと思うようになりました。
対等である夫婦間であてはめて考えてみても、相手を”叱る”ってすごく上から目線に感じるし、でも怒ってしまうことはある。
子どもともそんな関係でいいんじゃないかなあ…。
(親が怒っているのは子どもにとっては怖いことだから、怒っているところを見せる=恐怖で押さえつけることなのかもしれないですが…でもそれも、子どもから見ても親が自分と対等だと感じられるような関係であれば、恐怖というわけではないのかな。)
- 叱られて育つ子どもは叱られることを恐れて消極的になり、自分で自分の行動の是非を判断できなくなる(p.53)
- 怒りは人と人を引き離すー関係の遠い人がどんなに正しいことをいっても、あるいは正しいことをいうからこそ、子どもたちはその人がいうことを聞こうとはしません(p.58-59)
- 大人が子どもを対等に見ていないからこそ、叱ったり辱めるような言葉をいうのであって、大人同士であれば何か相手に改善を要求することがあっても、頭ごなしにしかったりはしないはず(p.60)
- 叱る代わりにできることーお願いすることを教える(p.67)
唐突に「カッパ着る!」と言い出した人
ほめること
貢献感を持てる援助
アドラー心理学の「勇気づけ」とは
- 子どもが人生の課題(対人関係)に取り組めるように援助すること
- 上に挙げた心理面・行動面の目標に向かって援助すること
なぜ「ほめない」?
ほめることは評価すること
ある男性のカウンセリングに、車で送迎してくれた妻が同席し、1時間隣でじっと話を聞いた。
この妻に夫が「よく待てたね。すごいね」とほめたとしたら妻はバカにされたと思うはず。
なぜかというと、ほめるというのは能力のある人が上から下に向かって下す評価の言葉だから。
ここに同席してくれたのが妻ではなく子どもだとしたら、きっと「よく待てたね。すごいね」と言ってしまいそう。
ほめる人がいなければ適切な行動をしなくなる
適切な行動をしなくなる
課題に挑戦しなくなる
結果さえ出せればいいと考える
実践してみて
評価ではなく喜びの共有を
「楽しそうだね」というふうに子どもが遊びに取り組んでいるときの様子に反応するだろう
- ほめることは評価すること(p.96)
- 評価ではなく喜びの共有を(p.101)
- 貢献感がある時、自分を好きになれる(p.122)
- こんな私でも役に立てていると思える時、自分に価値があると思え、そんな自分のことが好きになれる(p.123)
- 生きていることをゼロとして、何でもプラスと考えて加算(p.128)
「じゃじゃーん!」とこのポーズをとること多し
最後に
大人と子どもは同じではないが、対等であると見なければなりません。このことがわかれば、子育ての技術的なことは後からついてくるといっていいくらいです(p.204)
全体的に平易な言葉、4ページで1項目、項目ごとにまとめが書かれていて読みやすいです。ただ、言葉自体はわかりやすくても飲み込むのにちょっと時間がかかるな…という部分も。
こちらはマンガや会話形式でより具体的な例が挙げられていて、文章もわかりやすくとてもおすすめです。
初めての結婚式参列。ほぼ騒がず泣かず、いろんな人から「えらいねー」と褒められまくりでした。でもそりゃ褒めたくなるよね